移情閣友の会

自分史の中の移情閣友の会活動との30年

移情閣友の会副会長 河合純子

 1976年早春、10年に及ぶカナダの大学での学究生活から米国系製薬企業に転職した夫と共に子供達を連れて日本に戻った。1ヶ月ホテル暮しをしながら家探しをしていた時に眺めた舞子の海は感動的で美しかった。東の大阪湾(チヌの海)と西の播磨灘、真正面の淡路島がこんなにも近く大きいとは!大阪南部の金剛山麓で育った私は、その風景に魅せられて棲家を即決した。30数年後の今もその眺めは、明石海峡大橋が加わって以前以上の美しい風景を保っている。

 新しい街での生活は、まず子供たちの学校生活を通して徐々に知り合いが出来、交流も始まった。移情閣との出会いも然りである。PTA活動で開館前の記念館を見学、そのご縁で会館の受付業務等を手伝う事になり、ママ友3名で手伝い始めた。当時の須田勇会長の「ここに人が集まり、日中交流の拠点となるよう友の会を結成しましょう。河合さんやりなさい!」との一声で友の会の事務局長となった。

 1984年の暮れの寒い日に友の会は発足。翌年12月に、開館一周年記念行事として「陳舜臣とアグネスの集い」を神戸国際会館大ホールで開催、素人集団の無謀な興行であったが、多くの参加者を得て成功裏に終えた。明石海峡大橋の建設に伴い仮設展示場に移っても友の会の諸活動は活発であった。

 1995年の震災後は、岡山県作東町との交流で町のふるさと祭りに「神戸移情閣の店」を出店もした。友の会発足当時からの前半15年間は、中国語講座、公開講座、バス旅行、移情閣まつり等にも多数の参加者を得、同好会活動も次々と誕生した。「孫文の足跡をたどる」中国旅行にも毎年20数名が参加、交流の輪を大きく広げていた。自分史の中でも40代から50代のこの頃は、「友の会」の仕事が主婦としての「家事育児」や自宅を開放しての「河合英語塾」や、我々が主宰する日加交流の「カナダ会」等の活動より優先順位が高かったし、一緒に友の会活動に没頭する同志も多く出来た。

 2000年に事務局長を辞した年には、その功績に対し県民功労賞を頂き、県民交流の船の副団長として香港、西安、洛陽、上海を訪れる栄誉もいただいた。その後、友の会では事務局長職を置かず、役員と企画委員会での運営を試みられたが、執行部と会員全員の「要(かなめ)」になる友の会事務局長の不在は、活動にも支障をきたしたと思われる。

 私自身は、後半15年はコーラス同好会のお世話のみで、子供達の生れ故郷であるカナダとの交流の「カナダ会」や、日本の心の歌を歌う「楠公歌の会」の立ち上げに明け暮れて来た。昨年より、請われて副会長に名を連ねてはいるが、前半15年を走り続けた体力も気力も悲しいかな残っていない。ただ今後も大好きな舞子海岸の我が家が、播磨灘に沈む夕日に赤く染り、暮れなずむ淡路、舞子の灯と明石海峡大橋のライトアップが、闇に輝き始める風景を愛でながら、この地で築かれた仲間との絆を大切に歩んでゆきたい。





移情閣,孫文,記念館
Posted by 移情閣友の会 at 2013年12月20日 12:34友の会活動
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