哀悼 武上真理子先生
哀悼 武上真理子先生 中国文化同好会 清水 嗣子
2月6日、神戸新聞地域の掲示板の記事を目で追っていると「武上真理子氏が目指したもの」という記事にびっくりしました。
「ええっ、何でこと、この記事の書き方は亡くなられたという子で?・・・なんで、いつ?」。もう胸はぱくぱく震えていました。
中国文化同好会で「孫文と南方熊楠『海外にて知音と逢う』」のテーマで武上先生の講話を聴いたのがいつのことだった佐高でないが、垂水のレバンテの会場で初めてお会いしました。
キューピーさんのようなパッチリした目元が輝いて、女性の孫文研究者がとても新鮮でまばゆい感じで学究一途な先生とお見受けしました。あの講義から10年は経っているのに記憶がよみがえります。早速例会参加の申込をしました。
2月24日(土)神戸トアーロード中華会館での孫文研究会・華僑華人研究会共同例会の集いでは、代表の緒方康先生の先導で一同黙祷をし、武上先生の経歴と病歴の報告のあと、籠谷先生と緒方先生から「科学の人・孫文」の著書からの解説があり、休憩ののち、追悼の形で武上先生をお偲びしました。
安井三吉名誉館長:「電車の乗るときは一番前の車両に乗り、時たま女性の運転手さんに出会うと武上さんがぴったり似合う姿を思い浮かぶのです。」「華商大会の年、展示物など業者と相談しながら手際よく仕事をしてくれました。」「JR甲子園口駅に、桜の木があり、今年ももうすぐ咲いてくれます。彼女と話すができそうな思いいです。」と早い旅立ちをおしまれました。
「武上さんはミスティアスな感じの方で、物事をずらしていく見方、考え方をする人」と龍谷大学松居先生。
京大人文科学石川先生:「5年間仕事をしていただき感謝しています。英検二級で論文も英語で書く方だった。4月に脳梗塞を発症し10月の再発で助からなかった。」とそして狭間直樹先生からの伝言だとして、「中山大学の留学生を武上先生に指導任せた、よく面倒見てくれた。その留学生が再会のために京大に来られた時が、武上先生の偲ぶ会をしていた時で絶句していた」と。
留学生にとっては晴れやかな武上先生とのハグが遺影との対面となり悔いの残ることでした。哀しいお別れです。
宮川祥子さん(孫文と横浜で結婚された大月薫さんの曽孫さん):武上先生の本を読んで人生が変わるほどの変化があり、気持ちが定まり、嬉しく泣きました」と。人様の魂の救済者でもあった武上先生に感銘しました。
愛新翼孫文記念館館長より「科学の人孫文を再認識させてもらった。移情閣では5年間孫文研究員として勤めてもらった。痛恨の思いでありし日をしのんでお悔やみ申し上げます」と弔文を寄せられました。
「神戸学院大学ゼミで南方熊楠って何だろう?なんぼうのパンダのことかと学生は思ったと一同大笑い。討論では中村先生と武上先生、お互いハッスルして5倍、6倍返しの反論が見ものだった」と。お笑いもありました。
武上先生の大きなお仕事は、和歌山の南方熊楠顕彰会との接点で深いつながりの交流を結ばれたことで、この日は4名の関係者が参加され貴重なお話を伺うことができました。
孫文研究会の三輪先生がシンポジウムで発表する姿を映してほしいと頼まれて当時出始めのデジカメを渡された。「どうもうちの人、私の仕事信用していなくて証拠写真を見せたいから」と言われ、舞台の武上さんを写しましたと微笑ましいエピソードもありました。
最後にご遺族のご主人様のお話:「学を出て銀行に勤めていて悶々としていた。大学に行き直して研究に研究の毎日。テレビも見ず本ばかり読んでいました。
脳梗塞で倒れて快方に向かっていて本人も喜んでいたが再発し、短い人生だったけれど、充実した人生だった」と話されました。
そして、孫文研究会、華僑華人研究会共催の世話人陳来幸先生が、彼女のやりたかったこと、やり残したことをこれからしっかり受け継いでいかねばと思っていますと挨拶され、5時過ぎ例会と偲ぶ会を終えました。
大英博物館での孫文と熊楠の智の対話がスリップのように、中国文化同好会で講義してくださったのが初めての公開講座だったのではと思い出します。まさに一期一会とはこのことと今にして思います。
安井三吉先生のお言葉のように、私も桜の花を見ては武上先生の講義を思い出すことになるでしょう。ありがとうございました。合掌
咲いてまた逢いたい人の名を想い やすみりえ(川柳作家)
2月6日、神戸新聞地域の掲示板の記事を目で追っていると「武上真理子氏が目指したもの」という記事にびっくりしました。
「ええっ、何でこと、この記事の書き方は亡くなられたという子で?・・・なんで、いつ?」。もう胸はぱくぱく震えていました。
中国文化同好会で「孫文と南方熊楠『海外にて知音と逢う』」のテーマで武上先生の講話を聴いたのがいつのことだった佐高でないが、垂水のレバンテの会場で初めてお会いしました。
キューピーさんのようなパッチリした目元が輝いて、女性の孫文研究者がとても新鮮でまばゆい感じで学究一途な先生とお見受けしました。あの講義から10年は経っているのに記憶がよみがえります。早速例会参加の申込をしました。
2月24日(土)神戸トアーロード中華会館での孫文研究会・華僑華人研究会共同例会の集いでは、代表の緒方康先生の先導で一同黙祷をし、武上先生の経歴と病歴の報告のあと、籠谷先生と緒方先生から「科学の人・孫文」の著書からの解説があり、休憩ののち、追悼の形で武上先生をお偲びしました。
安井三吉名誉館長:「電車の乗るときは一番前の車両に乗り、時たま女性の運転手さんに出会うと武上さんがぴったり似合う姿を思い浮かぶのです。」「華商大会の年、展示物など業者と相談しながら手際よく仕事をしてくれました。」「JR甲子園口駅に、桜の木があり、今年ももうすぐ咲いてくれます。彼女と話すができそうな思いいです。」と早い旅立ちをおしまれました。
「武上さんはミスティアスな感じの方で、物事をずらしていく見方、考え方をする人」と龍谷大学松居先生。
京大人文科学石川先生:「5年間仕事をしていただき感謝しています。英検二級で論文も英語で書く方だった。4月に脳梗塞を発症し10月の再発で助からなかった。」とそして狭間直樹先生からの伝言だとして、「中山大学の留学生を武上先生に指導任せた、よく面倒見てくれた。その留学生が再会のために京大に来られた時が、武上先生の偲ぶ会をしていた時で絶句していた」と。
留学生にとっては晴れやかな武上先生とのハグが遺影との対面となり悔いの残ることでした。哀しいお別れです。
宮川祥子さん(孫文と横浜で結婚された大月薫さんの曽孫さん):武上先生の本を読んで人生が変わるほどの変化があり、気持ちが定まり、嬉しく泣きました」と。人様の魂の救済者でもあった武上先生に感銘しました。
愛新翼孫文記念館館長より「科学の人孫文を再認識させてもらった。移情閣では5年間孫文研究員として勤めてもらった。痛恨の思いでありし日をしのんでお悔やみ申し上げます」と弔文を寄せられました。
「神戸学院大学ゼミで南方熊楠って何だろう?なんぼうのパンダのことかと学生は思ったと一同大笑い。討論では中村先生と武上先生、お互いハッスルして5倍、6倍返しの反論が見ものだった」と。お笑いもありました。
武上先生の大きなお仕事は、和歌山の南方熊楠顕彰会との接点で深いつながりの交流を結ばれたことで、この日は4名の関係者が参加され貴重なお話を伺うことができました。
孫文研究会の三輪先生がシンポジウムで発表する姿を映してほしいと頼まれて当時出始めのデジカメを渡された。「どうもうちの人、私の仕事信用していなくて証拠写真を見せたいから」と言われ、舞台の武上さんを写しましたと微笑ましいエピソードもありました。
最後にご遺族のご主人様のお話:「学を出て銀行に勤めていて悶々としていた。大学に行き直して研究に研究の毎日。テレビも見ず本ばかり読んでいました。
脳梗塞で倒れて快方に向かっていて本人も喜んでいたが再発し、短い人生だったけれど、充実した人生だった」と話されました。
そして、孫文研究会、華僑華人研究会共催の世話人陳来幸先生が、彼女のやりたかったこと、やり残したことをこれからしっかり受け継いでいかねばと思っていますと挨拶され、5時過ぎ例会と偲ぶ会を終えました。
大英博物館での孫文と熊楠の智の対話がスリップのように、中国文化同好会で講義してくださったのが初めての公開講座だったのではと思い出します。まさに一期一会とはこのことと今にして思います。
安井三吉先生のお言葉のように、私も桜の花を見ては武上先生の講義を思い出すことになるでしょう。ありがとうございました。合掌
咲いてまた逢いたい人の名を想い やすみりえ(川柳作家)
移情閣,孫文,記念館
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
カテゴリ
最近の記事
新規同好会「チャイナ見聞録」会員募集 (5/21)
2024新春のつどいのご案内 (1/1)
だより128号 (1/1)
中国文化同好会9月例会のご案内 (9/14)
第3回午餐会・講演会のご案内 (8/24)
移情閣だより127号 (8/24)
2023年度「関帝廟普度勝会・精進料理の会」のご案内 (8/23)
過去記事
最近のコメント
お気に入り
QRコード

読者登録